2014年12月18日木曜日

江戸の正月
「家内安全」「大願成就」「開運招福」等の願いを込めて「歳神様」新年を迎える
           美濃山忠敬
  中央区日本橋小学校非常勤講師
 江戸の人々は、「家内安全」「大願成就」「開運招福」等の願いを込めて「歳神様」新年を迎えます。
江戸時代半ばから「稲葉風」「谷風」「お染風」など約十年のサイクルで感冒が大流行しました。「四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北の歌舞伎「お染久松」が流行した時の感冒は、「お染風」。風邪をひかないため「久松るす」の張り紙を戸口に。「あなたの好きな久松さんは留守をしていますので、お染さん(風邪)は来ないで」という洒落。
また、江戸時代に13回も大流行した麻疹、その他にも瘧 (マラリア)」、疱瘡、幕末にはコレラ。江戸の人々にとって病気に罹らずに生き抜いて歳神様を迎えることは、大変なことでした。
                                                                             
新年を迎えるには、年末の大掃除。江戸城では、旧暦の1213日、年男の老中の将軍座所の箒がけ、殿中の塵を払う「煤払」から始まり、江戸の町中一斉に煤払。終わると、煤餅を搗いてお祝いし、商家では、主人の胴上げをしました。この日で主に蕎麦を送るお歳暮も終り。
年越し蕎麦は、江戸中期頃から商家で月の末日に蕎麦を食べる「三十日蕎麦」が転じて年越しそばに。幕末には、江戸の食べ物屋が六千軒余のなか、蕎麦屋は三千七百軒余。江戸の人々の廉価な16文の蕎麦好きは想像以上です。
蕎麦は、細長いことから「長寿延命」「家族の縁が続く」、切れやすいことから「蕎麦で1年間の厄を切る」・・と江戸っ子の「健康観」と縁起担ぎが。そして、立春(正月)の前日の節分で、鰯の頭、柊の枝を戸口に差し、自分の年齢のより一つ多く豆を食べ、年越しをしました。

正月は、新年を迎える儀式がたくさんありました。
正月三が日、江戸城堀端だけは、大名などの登城でごったがえします。「初登城」の時間は、午前七時頃まで。殿様の下城を待っているお供の者目当てに、棒手振りや見物人もたくさん来ます。
登城した大名や高位の役人は、「兎羹の儀」。徳川家の始祖が兎汁を相伴され武運が開けた事から伝統的に続く儀式。武士の元旦は、「御喰摘み」。熨斗、鮑、勝栗、昆布、出陣の際の縁起のいい食べ物。汁は勿論「兎汁」。
元旦に江戸の町民は、若水と若水で点てた大福茶や屠蘇を飲みました。三が日は雑煮。雑煮は切り餅、具は小松菜。鰹節の出汁を使った醤油味だけの簡素なもの。武家の雑煮は、餅、里芋、青菜、花鰹と具たくさんでした。七日は七草粥、十一日は鏡開き、十五日は小正月と続きます。

元旦を迎えた江戸の町には、朝早くから宝船売りの掛け声。皆縁起の良い初夢を見ようと枕の下には七福神の宝船の絵。宝船には、「長き夜の遠眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」の回文。
年始は、本屋の集中した日本橋通油町が繁盛しました。宝船の他に挿絵の入った草紙や歌舞伎の錦絵がお正月の贈答品や江戸土産として重宝されたからです。

元旦から門付け芸の獅子舞、素襖に烏帽子の正装で色鮮やか三河万歳、猿回し,太神楽、鳥追いが街々を歩きます。裏店を含め皆で新年を祝います。
二日から武士は裃姿で、商人は麻裃に脇差姿で年始の挨拶回り。挨拶は、「おめでとう」ではなく、「御慶 (ぎょけい)」と言っていました。
大名や武家の門松は、巨大なもので競い合いました。門松は、歳神様が宿る依代。凧揚げは、大人もよくしました。奴凧は、身分の低い町人たちが、空高くから武家屋敷を見下ろすという事で、気分すっきり。
1516日は、江戸と江戸周辺からの奉公人が、盆とお正月に親元に帰る「藪入り」。帰ってきた子どもたちで江戸の町中凧が一番多く揚がりました。

こうしたお正月を過ごした江戸の人々は、生活を日常に戻し、梅、桜が咲き誇る春を待ちます。

2014年8月20日水曜日

8月19日 西国分寺 いずみホール

真夏の夜の平和コンサート 三多摩革新懇
 女性コーラスFQC(国立音楽大学OGら)
みんなで「ふるさと」の大合唱
三好鉱一三多摩革新懇代表の挨拶
肥田雅弘さんのバリトン独唱
真夏の夜の平和コンサート    
女声コーラス、ヴァイオリン独奏、バリトン独唱 どれもよかった!!

 三多摩革新懇は、8月19日、国分寺市立いずみホールで、結成20周年の真夏の夜の平和コンサートを開催しました。女声コーラスはイギリスのホームソングメドレーや「川の流れのように」がよく、声量もありました。ヴァイオリン独奏は特にツィゴィネルワイゼンがよく迫力もありました。バリトン独唱も一生懸命で、声量のある大きな声がよくでていました。心が洗われるコンサート。

2014年7月30日水曜日

 江戸の夏   
美濃山忠敬        
中央区日本橋小学校非常勤講師

 江戸の夏は、卯月1日の綿入れから合わせへの衣替えと初鰹の売り声とともに始まります。初鰹は、鎌倉産の鰹が一番早く出回り、初値に10両とか20両、4人家族で2年は暮らせるといわれた時代、今に直すと数百万という超高値です。初鰹は、将軍家に献上され、高級料亭や大商人などが買いました。町人は、少し時期が遅く値が下がった頃に房州、伊豆からの鰹を切り身で買っていました。「井戸端で見せびらかして刺身をし」「初鰹銭とからしで二度涙」と「粋」の生きざまを示す初鰹です。このころ、初 茄子も人気です。

野菜は、江戸郊外の千住葱、砂村胡瓜、早稲田茗荷、内藤南瓜、滝野川牛蒡、品川蕪、小松菜、練馬大根、羽田梨など、旬の初物を食べていました。江戸っ子の初物好きは、初酒、若鮎、初松茸など多くの食材に広がっていました。鰹「勝つ」などの縁起を担いでいました。

歌川広重「名所江戸百景」「両国橋大川端」大川と両国広小路の賑わいがわかります
桜の季節が終わると、向島百花園や堀切菖蒲園、上野不忍池の蓮の花の観賞、変種朝顔など江戸の庶民は花好き。蓮の葉は、涼を呼ぶ花として観賞されました。そして、葛西辺りで栽培された花をめでていました。蛍狩りも行われました。端午の節句の鯉幟、七夕飾りは、江戸の町の彩あるあでやかな街並みに一変させました。そして、町には、冷水,心太、西瓜、シャボン玉、金魚、白玉もち,枇杷葉湯売りの売り声が裏店にまで届きます。

悪疫退散祈願と死者を弔う慰霊の隅田川の川開きは,皐月28日。大小さまざまな船が川に操出し、船の上では、三味線、笛太鼓、謡などで楽しみ、船の上での料理されたものも食べて楽しみました。両国広小路は、見世物小屋やなどで江戸一番の賑わいになりました。「鍵屋あーっ」「玉屋あーっ」の両国花火は、花火の費用は、料理屋や船宿が出したもので、江戸庶民の楽しみでした。
歌川広重「名所江戸百景」「鎧の渡し小網町」
関八州のコメが集まった小網町の倉に燕が飛んでいます
水無月(陰暦六月)1日は、将軍家に加賀藩から雪が献上され、富士参りの日。富士講の人々は、富士山に登りますが、富士山に行けない庶民の老若男女は、鉄砲洲、下谷坂本、白山、駒込などの富士塚に気軽に登山した。7日は、江戸の人々総出で年1度の「井戸浚い」。井戸の清掃で、「産湯を水道でつかい」の誇りと水質確保をしていました。
 
15日は、天下祭、日枝神社の山王祭。隔年開催の天下祭、神田祭と山王祭で、毎年、先頭で「閑古鳥」の山車を引くのは、大伝馬町だけ。大伝馬町の誇りでした。大伝馬町は、太物(木綿)問屋や年に五千両の御用金を納めていた下村大丸があり、全国輸送の要の大伝馬の駅舎もあり、幕府の御用金、日本橋地区133店のうち59店もあった「財閥の町」でした。  

大都市江戸の町の物資輸送の主力は、水運。江戸の町は、「三十間堀」「八丁堀」など、堀が縦横に張り巡らされ、日本橋は、物流の終着地。江戸城と隅田川を結ぶ日本橋川や水運の掘割の町で中洲の前は江戸湾、向かいに佃島。江戸時代は、気象条件はよくわかりませんが、「小氷期」と言われています。暑さは「川風を売り物にする江戸の夏」です。寝苦しい夜、行水、夕涼みをし、松葉や蓬を使った「蚊遣」を使い、蚊帳をつり、寝ていました。江戸の夏は、勢いのある楽しい日々が続き、暑さを跳ね返すエネルギーを持った季節でした。
歌川広重「名所江戸百景」「麹町一丁目山王祭練り込み」
江戸城に入る前の山王祭。向うに「閑古鳥」が小さく見えます