2019年12月17日火曜日


江戸庶民のしたたかなエコ生活
               工藤義弘代表世話人(都教組元委員長)
物がなくても人生を楽しむ江戸庶民
現代と比べたら、江戸時代は極めて物のない生活だった。戦後の日本で「三種の神器」といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機などゼロである。ましてや、パソコンやスマホなどは考えにも及ばない。交通手段はもっぱら歩きだ。
しかし、江戸時代に出された書物などからは、物がなくても明るく生き生きと暮らしていた江戸庶民の姿が浮かび上がってくる。そこに、現代が失いつつある人と人との関わりが垣間見られる「人情」という言葉がふとよぎる。
 共用が原則の長屋(裏店)
 江戸に住む多くの庶民は、長屋(裏店)と呼ばれた住居に住んでいた。今で言う集合住宅であるが、集合住宅といっても、現代のアパートやマンションなどとは違い、そこでは場所、物、時間が共有されていた。個別の部屋はあるが、水道(井戸)、トイレ、ゴミ捨て場などは、長屋の住人で管理、共用するのが原則だった。
現代では考えられないかもしれないが、一つの物を共有するということは、物が溢れかえらず効率的といえるのかもしれない。使用後は、みんなで使うので、きれいにしておくという気遣いもあったようだ。
 「井戸端会議」と他人とのかかわり
 井戸は、毎日の洗面や炊事、洗濯などのために人が集まる場所である。住人たちは、自ずと顔なじみになっていく。
「井戸端会議」という言葉は、かつて長屋たちが井戸端に集まり、水汲みや洗濯などをしながら世間話や噂話をしたことからきているが、 ここが貴重な情報源の場所だったことは想像に難くない。
 さらに、井戸端での交流は、味噌、醤油の貸し借り、子どもの面倒、病気の看病、さらには夫婦喧嘩の仲裁など、住人同士が深く関わり会う関係を築いていくことになる。
 プライバシーが大切にされる現代では、長屋の暮らしなどとんでもないと辟易するかもしれないが、江戸の庶民はこのような共同体の中で和気藹々と暮らしていたのである。
江戸では、毎年7月7日(旧暦)になると、井戸浚(さら)いという井戸掃除がどこでも行われていたというが、庶民がいかに井戸を大切にしていたかわかる。七夕の竹を飾る前に、必ずやっておかなければならない重要な行事だったようだ。
式亭三馬の滑稽本『浮世床』には、このような長屋の住人たちの生活が生き生きと描かれており、落語などでも、「井戸端会議」の姿は描かれている。
 狭いながらもすぐれた収納術
 江戸の町は、中期には百万人を超える大都市だったが、その居住を支えたのが長屋というシステムだった。
 しかし、住環境はいいとはいえなかった。部屋は台所兼用の土間を入れても6~8畳程度。畳の部屋は4畳半~6畳といった一間だ。そこに子持ちの所帯も住み、最低限の家財道具を置いて生活していたが、考えられない狭さだっただろう。だがそこには和室ならではの収納術があった。
 畳んで収納できる布団とともに、衣類は風呂敷に包み、枕屏風というしきり(パーテーション)で部屋の隅に置いた。食事は一人分の食器が乗る膳を使い、食後は食器を重ねて収納した。台所も設けず、煮炊きは玄関先のかまど、洗い物や調理の準備は井戸端である。
 冷蔵庫はないが、さまざまな行商人(棒手振)が毎日やってくるので、食料を買い置きしておかなくても済む。その日必要な物を買えばよかった。鮮度を保持するには、井戸が利用された。
 とりわけ、江戸は火事が多かったため、江戸庶民は物を所有し、備蓄するという発想はなかったようだ。着の身着のままで避難するのである。 
それでも必要な季節物(火鉢や炬燵、蚊帳など)は損料屋(レンタルショップ)から借りていたのである。
 江戸庶民が現代に示唆するもの
 江戸庶民の生活は、究極のエコだといえるだろう。それは、物に対する執着の問題でもある。江戸の庶民は、人と人との関わりを最も大切にしていたのではないだろうか。
 繰り返すようだが、現代に失われつつあるものがそこにあるような気がしてならない。
 なお、江東区にある江戸深川資料館では、江戸時代末期(天保年間)の深川佐賀町の町並みを再現しておりに、「長屋(裏店)」の雰囲気を実感できる場所となっている。
 【写真】「長屋(裏店)」内部(深川江戸資料館)

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