驚異的な江戸庶民の識字率
元都教組委員長
東京革新懇代表世話人
工藤芳弘
式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』(1809年~1813年)は、江戸下町の銭湯を舞台に、そこでの会話が当時の話し言葉そのままで書かれている。その中に、次のような一節がある。
「わたしのおッかさんは、きついから、むしょうとお叱りだよ。まァお聴な。
朝むっくりと起ると手習のお師さんへ行ってお座を出して来て、 夫から三味線のお師さんの所へ朝稽古にまゐってね。内へ帰って朝飯をたべて踊の稽古からお手習へ廻って、お八ッに下ッてから湯へ行て参ると、直ぐにお琴の御師匠さんへ行て、夫から帰って三味線や踊のおさらひさ。其内に、
ちイッとばかりあすんでね。日が暮ると又琴のおさらひさ。夫だから、さっぱり遊ぶ隙がないから、否で否でならないわな」。教育熱心な母親に愚痴る娘の会話だが、娘の友人はこれに同情している。芸事や手習いで、江戸の子供たちも大変だったのだ。江戸では、それなりの理解と資力のある家庭の子供は、寺子屋に通うのが普通だった。愚痴をこぼす娘の母親は、いわゆる「教育ママ」といったところだろう。
早朝、寺子屋へ行って机の準備、そして三味線の稽古。朝食後、踊りの稽古。午後は寺子屋で勉強し、おやつを食べて銭湯へ。そして琴の稽古、三味線や踊りのおさらい。ちょっと遊んで、夕方は琴のおさらい。現代のような学校はなかったが、子供たちはしっかりと勉強していたのだ。
「わたしのおとッさんは、いっそ可愛がって、気がよいからネ。おッかさんが、さらえさらえと、
おいいだと、何のそんなやかましく云事はない。あれが気儘にして置いても、どうやら斯うやら覚えるから、打遣って置くがいい。御奉公に出るための稽古だから、ちっとばかし覚えればいいと、お云いだからネ」と、父親の理解に、娘は言及しているが、母親はこれをまったく受け付けない。現代にも通じる家庭の一コマだ。
江戸庶民の識字率は高かった
江戸庶民が教育熱心だったことは、『浮世風呂』会話の中からもうかがえる。事実、江戸の庶民の多くは、今のように学校に通わなくても、読み書きはしっかりとできていたのだ。
トロイの遺跡発掘で有名なシュリーマンは、その旅行記で、「(日本の)教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。清国をも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と述べている。実際、江戸後期の庶民の識字率は(諸説あるが)、全国平均で6割以上、江戸の町では7割~8割とも言われている。
江戸の町には貸本屋がたくさんあり、子供からお年寄りまで、本が手垢で汚れて、すり切れ、ボロボロになるまで読まれていた。
これは、当時の識字率の高さを顕著に示した例だ。浮世草子、読本、人情本、滑稽本、洒落本など、江戸の文学が花開いたのは、この高い識字率があったからにほかならない。
自然発生的に生まれた寺子屋
江戸後期から幕末にかけて、全国に1万5000以上の寺子屋(手習所、手習塾)があったと言われている。寺子屋が生まれたのは、庶民が生きていく上で読み書きや算盤を習得する必要があったからだ。そこで、自然発生的に生まれた教育機関が寺子屋だったのである。
寺子屋には、人を蹴落として自分だけが得をするという発想はなかった。親は子どもに、生きていく上で必要な読み書きを身に付けさせたいと、純粋に願ったのである。寺子屋を発展させたのは、そのような親の思いではなかったか。そこに教育の原点があるような気がする。
また、授業料(束脩)を免除する制度もあり、貧しい家の子供も寺子屋に通うことができた。このように、江戸庶民は、貧富や身分に関係なく寺子屋で教育を受けることができた。その結果、ともに支えあう共生社会が、江戸の町に実現できたのではないかと思うのである。
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