江戸 農業にみる循環
江戸時代は、今のような流通が確保されていなかったため、地域を中心とした循環型の社会であった。また、自然と共生した低炭素社会であり、現代が直面している地球温暖化の問題などはなかった。つまり江戸は、自然共生の低炭素、循環型の持続可能な社会であった。
だからといって江戸時代の生活に戻ることなどできるはずはないが、自然と調和を保ちながら暮らしてきた江戸のリサイクルやエコの取り組み(考え方)は、現代にも何らかの示唆を与えているのではないだろうか。そのことを農業の面から考えてみたい。
日本人と稲作
1862年(文久2年)に三浦直重という人が、『米徳糠藁籾用方教訓童子道知辺』(こめとくぬかわらもみもちいかたきょうくんどうじのみちしるべ)という農書を著している。江戸時代の水田稲作を中心とした農村地帯の資源循環を述べた著作である。書き出しは、「そもそも米に徳があることを世間の人は一応知っているが、どれほどのものなのかをはたして知っているだろうか」で始まる。米は二千年以上にわたって日本人の生活を支えてきた食物である。日本の気候や風土がイネの栽培にとても合っており、長期保存ができたこともその理由だろう。また、江戸時代の武士の俸給が石高(米の生産量)であったことからも、日本人と米の関わりの重要さがわかる。
副産物をリサイクル
江戸時代の人々は、稲作のあとに残る米の副産物を完全にリサイクルしていた。草履や草鞋は「藁」から作られたものであるが、江戸庶民にとって、草履はサンダル、草鞋は靴であった。三浦直重もその著書で、「米の徳」=「藁」「籾殻」「糠」がいかにすぐれているか詳細に述べている。
「糠」については、「素肌を洗う」「ものにくっついた油を洗い落とす」「ヌカ床などを作り、漬け物を作る」「紺屋で炒りヌカに糊を混ぜて染め抜きに使う」「ヌカとまぐさを混ぜて馬の飼料にする」「炒って小鳥のえさにする」「畑のこやしにする」「ヌカを袋に包んで井戸掘りの錐の穴に詰めておくと清水が沸き出す」などと記し、「籾」は、「ものを箱などに入れる時、クッション代わりに使う」「湿気取り」「道路の修理」などに使い、「藁」は、「畳」「米俵」「屋根」「草履」などに利用するとしている。
江戸から続く米の副産物の活用法は、今に引き継がれているものもあるが、「ムシロ」「タワラ」など、今では理解できない子どもたちが多い。「縄跳び」は今でも盛んだが、この「ナワ」が藁を綯(な)って作っていたことなど想像もできないだろう。
江戸の野菜促成栽培
「初鰹」など、江戸では初物を珍重する贅沢文化が広がった。そこで江戸の農民は、米などの主食よりも高く売れる初物づくり、とりわけ野菜の促成栽培に力を入れ始めた。
江戸の促成栽培は、寛文年間(1661年~73年)の頃、江戸の大農業生産地であった砂村(現江東区)の松本久四郎が考案したと言われている。砂村ねぎ、大丸砂村西瓜、砂村丸茄子などに名を残している。
促成栽培の方法は、ゴミを堆積すると醗酵熱が出ることを利用したものである。江戸市中から出るゴミを集めて堆積し、その熱を利用して野菜の種を早く蒔けば収穫が早くできるというわけだ。
庶民が贅沢をすると身分制度が揺らぐとして、江戸幕府は度々、出荷日を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを出して取り締まったというが、明治維新以後には一層盛んになった。「江戸ゴミ」という都市廃棄物を農業生産に活用(リサイクル)したこの栽培方法は、昭和30年代まで続いていた。
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