水の都 江戸
都教組元委員長 工藤芳弘
江戸文学と水路
私が最初に赴任した中学校は、江東区の小名木川沿いにありました。その学校の校歌は、「芭蕉、其角もこの水に舟を浮かべた小名木川~」ではじまります。なるほど小名木川と隅田川の合流地点に松尾芭蕉(1644年~1694年)は住んでいました。深川の芭蕉庵です。ここから芭蕉は、弟子の曽良とともに『おくのほそ道』の旅に出たのです。芭蕉は深川を発ち、多くの見送りの人たちとともに隅田川を舟でさかのぼり、千住に到着します。
また、4代目鶴屋南北1755年~1829年)の『東海道四谷怪談』の見せ場のひとつに、「砂村隠亡堀の場」があります。伊右衛門が釣りに出ると、戸板の両面に打ち付けられたお岩と小平の死体が流れ着き、「戸板返し」という「早変り」の手法が使われる歌舞伎の一場面として有名です。
雑司ヶ谷の神田川(面影橋)から流された戸板は、隅田川に流れ込み、上げ潮で小名木川に入って横十間川へと流れつきます。そして「砂村穏亡堀の場」となるわけです。横十間川にかかる今の岩井橋近辺が砂村穏亡堀だったと言われていますが、そこはかつて焼き場があり、昭和の中頃まで「泣く子も黙る穏亡堀」と言われていました。岩井橋のすぐ近くには、現在「東京大空襲・戦災資料センター」があります。
「水の都」江戸
江戸文学の著名な2作品にもあるように、江戸と川には何か深いかかわりがあるような気がします。
そこであらためて江戸の町を眺めてみると、そこはまさに「水の都」だったということです。江戸は、隅田川が江戸湾に注ぎ、隅田川の中ほどからは神田川、さらに日本橋川には日本橋が架かり、隅田川には両国橋。近くに柳橋、馬喰町。江戸湾沿いには八丁堀、芝、築地などの町が連なり、日本橋の西には江戸城がそびえ立っていました。
江戸という地名は、もともとは「江所」と言ったという説もあることから、「江(入江)に臨む所」だったのです。ここでは詳細を控えますが、私は、江戸の「江」は隅田川を指すのではないかと考えています。江戸の庶民は、隅田川を「大川」と呼びましたが、「水の都」の象徴は「大川」だったに違いないからです。
江戸はウオーターフロント
江戸は、今で言うウオーターフロントでした。江戸市中には、今では想像もつかないほどの水路(堀)がたくさんありました。そして、さまざまな船が物資や人をのせて水路を行き交いました。当然のことながら、船を横着けにして荷物の上げ下ろしのできる施設が必要となります。それが櫛状に堀込まれた船入堀です。八丁堀という地名は、船入堀の長さが八丁あったことに由来しています。
また、船着場としての河岸も70カ所ほどありました。河岸は、やがて「魚河岸」に代表されるように、市場やその地名を意味するようにもなります。
河岸の周辺には、倉庫、問屋、市場などがつくられていきます。周辺エリアでは多くの人々が働き、そこで働く人々のための商店や飲食店が立ち並ぶようにもなります。こうして、江戸の町は水路周辺を中心に栄え、百万人以上の住民と労働者が働き暮らす、賑やかで活気あふれる町へと成長していったのです。
周りを海で囲まれている日本は、物資の運搬に川や海を使う水路は理にかなっていました。しかも自然の風や川の流れを利用するので、大気汚染などと全くない省エネルギーです。エネルギー問題が深刻化しているいま、時代が違うとはいえ、江戸に学ぶところがあるような気もします。