2026年7月17日金曜日

                7月の旬

        シシトウ

 


               薬剤師 橋本紀代子 

 シシトウはシシトウガラシの別名ですが、シシトウの呼び名の方が普及しています。 先端(果頂部)に獅子の頭、鼻、口があるように見えるから命名されたといわれます。成熟すると赤くなりますが、未熟果で出荷。

 旬は510月。ハウス栽培のものは通年出荷されています。

 甘トウガラシ(甘味種)に分類され、ピーマンなども仲間です。

 時々激辛のものが混ざるのは、栽培時の水不足や暑さによるストレスが原因ではと推測されています。辛みのもとはカプサイシンです。

 2023年、シシトウの生産量がトップの高知県で辛くないシシトウの開発に成功しました。その後、公募で選ばれた商標名は「ししまろ」です。

 免疫力を高め肌にも良いビタミンC、骨の成長を助けるビタミンKも豊富です。ビタミンAに変換されるβ-カロテン、ビタミンEなどは、油と一緒に調理すると吸収が高まります。

 

おいしい食べ方

 丸ごと加熱する場合は、破裂しないように包丁やつまようじで穴を開ける下処理をします。

 ヘタも食べられますが、ヘタを取るかどうかは好みです。

 網や魚焼きグリルで焼く場合は、焼き色が付く程度にします。しょうゆをかけるだけでおいしくいただけます。削り節を振りかけるなどしても美味です。

 フライパンを使ってごま油で炒めてから、カツオだしのつゆに浸けると日持ちします。

 シシトウを小口切りにして、薄切りのナスと一緒にフライパンに油を入れて炒め、しょうゆ、みりんで味を付け、盛り付けてから白ごまをかけても。

 豚肉との相性が良いので、豚ひき肉を油で炒め、次にタマネギの薄切りを入れ、最後にシシトウを加えて色が鮮やかになったら塩こしょうで味を調えます。

 モヤシやしらす干しとのあえ物、天ぷらにも向いています。

 【「食べもの通信」7月号より転載】

江戸庶民と富士山

江戸庶民と富士山~「富士講」の示唆するもの

 7月1日は富士山の山開きの日です。2ヶ月余りの開山期に20万人もの登山者を受け入れる富士山。今や富士山は海外からの観光客も含めて大変な人気となっています。

 東京には「富士見」とつく町名、坂名、駅名が全国一多く、72カ所もあるということですが、江戸庶民にとって富士山とはどんな山だったのでしょうか。

江戸時代の富士信仰

室町時代頃から富士山は参拝する山として信仰されていました。人々にとって富士山は「あの世」を意味しており、「あの世」に至ることで、一度死んで生まれ変わることができると信じられていたのです。おそらく富士山の威容が、人々にそう思わせたのではないでしょうか。  

富士信仰は、江戸時代中期に最盛期を迎えました。それに伴って現在の吉田口、御殿場口、須走口、富士宮口の原型となる登山道の整備が進みました。しかし江戸庶民にとって、富士山は金銭面でもそう簡単に登れる山ではなかったようです。

江戸庶民の「富士講」

そこでつくられたのが「富士講」というシステムです。江戸では「江戸八百八講、講中八万人」ともいわれるほど、多くの講が組織されていました。

「富士講」の特徴は、個人ではなく集団としての行うものだということです。職業や住む場所を同じくする人々が講をつくり、少しずつお金を貯めて、代表者を富士参拝に送り出しました。代表者は山頂で御来光を拝み、浅間神社に講のメンバー全員の願いを祈願してから江戸に戻りました。

この仕組みは、経済的な制約がある江戸庶民にとって、富士参拝を可能にしただけでなく、江戸庶民の結束を強めるものとして機能していました。その背景に、江戸の都市構造があったと思われます。

江戸は武士の町であると同時に、全国から集まった商工業者が密集する町人の町でもありました。町内や同業のつながりをもつ江戸庶民にとって、「富士講」は信仰だけでなく、相互扶助や交流の場としても機能していました。新しい共同体を提供する役割を「富士講」が果たしていたのです。

また、同業者や近隣住民と講を組むことは、経済的な相互扶助だけでなく、精神的な支えを得ることにもつながりました。

今に残る富士塚

「富士講」の名残が、江戸市中に築かれた富士塚です。富士塚は富士山の溶岩や土を盛って作られた人工の山で、富士山に行けない人々が身近な場所で富士信仰を実践するための場所でした。

富士塚作りは、各講の共同事業として行われました。講のメンバーが資金を出し合い、富士山から溶岩を運んできて小さな山を築きます。塚の頂上には浅間神社を祀り、登山道には富士山の各合目に対応する石碑を置きました。江戸庶民は、富士塚を登ることで富士参拝と同じ功徳を得られるとしました。

現在でも都内には、約50の富士塚が残っているといいます。その多くは地域の神社の境内にあります。品川神社の富士塚、十条富士神社の富士塚、小野照崎神社の下谷坂本の富士塚などは、江戸時代の「富士講」の活動を具体的に知ることができる貴重な場所だといいます。

「富士講」が示すもの

 江戸庶民が作り上げた「富士講」は、単に宗教的なものではありません。それは、都市に住む人々が共同体を形成し、経済的・精神的な相互扶助を行うためのシステムだったのです。

「富士講」は、現代都市社会における共同体のあり方に、大きな示唆を与えているのではないでしょうか。