2016年3月9日水曜日

3月9日 上野公園

「哀しみの東京大空襲」供養式と「時忘れじの塔」記念式典が催されました
海老名香葉子さんは、二度と戦争が無きように、世界中の子どもたちが手をつないでくれるように、命のある限り訴えていきたい。みんなで、手をつないで、いのちを大切にしていきましょう、と、話しました。
   
          林家正蔵さん  
       林家三平さん      
宮本、池内衆議院議員も参列

2016年2月22日月曜日

マジックショー タジマジックとわか葉
      東京革新懇 新春のつどい


2015年12月11日金曜日

12月6日、日比谷野音

 KEEP CALM AND NO WAR 
「戦争反対★1206銀座大行進」集会での
  古謝美佐子さんのライブ
   

2015年7月6日月曜日

6月30日

   合唱団「この灯」が
   「あ海よ沖縄よ」「夜明けだ」を演奏
  仲里利信さんの人間講座で
  6月30日、「オール沖縄」の衆議院議員、仲里利信さんの人間講座が、東京革新懇の人間講座運営委員会主催で開催されました。合唱団「この灯」は、オープニングで、「夜明けだ」と「ああ海よ沖縄よ」を演奏しました。「ああ海よ沖縄」は、昨年9月8日に「沖縄連帯の夕べ」で演奏したところ、仲里さんがたいへん感激して、そのCDを自分の小型トラックの荷台につけたアンプから流し、そのあと訴えを行ったという、エピソードのある曲です。沖縄では仲里さんの流したこの曲と演説が大評判となり、翁長知事誕生の大きな力になりました。そして、その直後の総選挙での沖縄全4小選挙区での、自らを含む「オール沖縄」の大勝利につながりました。「オール沖縄」の大きな勝利の一役を果たしたのがこの曲と言っても差し支えないように思います。下は 歌詞。

人間講座のさいごに、仲里利信夫妻と共にみんなで「沖縄返せ」をうたう。

2015年6月3日水曜日

   東京革新懇
   熱い沖縄連帯ツアー 

 
 翁長県知事を先頭にした「オール沖縄」のたたかいが勢いを増し、35千人が参加した17日の県民大会は、新基地阻止の気概に溢れ大歓声につつまれました。
 東京革新懇は、沖縄との支援・連帯ツアーを24人の参加で515日~17日の日程で行い、熱い連帯の取り組みとなりました。
 那覇空港からは貸し切りバス。ガイドは大ベテランの沖縄平和委員会代表理事の与儀喜一郎さん、資料をもとに詳しく話していただき、思いを新にしました。
 まず嘉数高台からオスプレイが並ぶ普天間基地を一望(上写真、普天間基地について説明する余儀さん)、続いて嘉手納基地視察。名護市役所では、全労連ツアーと合流、稲嶺進市長から新基地建設を絶対許さない決意のこもった挨拶を受けました。(1番下写真、稲嶺進市長とガッチリ握手する今井事務局長)
 15日夜は、名護市を中心に活動する「やんばる統一連」のみなさんと交流。
 翌日、ヘリパッド建設反対でたたかい続けている東村高江で、伊佐村議より、報告を受け、交流しました。
 午後からキャンプシュワブゲート前の座り込みに合流。(右写真、キャンプシュアブ前の座りこみ)明日の県民大会を控え、北は室蘭、南は佐賀まで、続々到着し400人位に膨れあがりました。
 16日夜は、共産党沖縄県委員会基地対策責任者の真栄里さんから、たたかいの現状を聞き、参加者全員の感想を出し合い、「大いなる勉強の2日間だった」「来て本当によかった」等の感想が出されました。


2015年4月8日水曜日

教科書採択

これが育鵬社版教科書だ 

 今年8月までに中学校の社会科の教科書が採択されます。自民党や日本会議は、育鵬社教科書の採択をめざし動きを強めています。現在使われている育鵬社の教科書を見てみましょう。

育鵬社版『新しい日本の歴史』
【日中戦争】1937年、日本軍は何者かに銃撃を加えられ、中国側と撃ち合いとなりました。」「日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大されました。」「12月に南京を占領しましたが・・・」
【太平洋戦争】「(アメリカが)強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。」「日本は米英に宣戦布告し、この戦争を『自存自衛』の戦争と宣言したうえで、大東亜戦争と名付けました」
【日本軍の進出】「わが国の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への希望を与えました。」「1943年、東京で大東亜会議を開きました。・・・欧米による植民地支配からアジアの国々を解放し、大東亜共栄圏を建設することが、戦争の表向きの目的として、より明確に掲げられるようになりました。」

育鵬社版『新しいみんなの公民』
【大日本帝国憲法と日本国憲法】(帝国憲法発布の絵と「五箇条のご誓文」を掲げ)「アジアで初めての本格的憲法として高く評価されました。」(日本国憲法)「GHQは、自ら1週間で憲法草案を作成したのち、日本政府に受け入れるようきびしく迫りました。日本政府は英語で書かれたこの憲法草案を翻訳・修正し、改正案として帝国議会に提出しました。」英文憲法草案だけ。
【国民主権と天皇】天皇に国民主権の倍のスペース。「天皇は、・・・日本国を代表し、古くから続く日本の伝統的な姿を体現したり、国民の統合を強めたりする存在となっています。」
【平和主義】「主権国家には国際法上、自衛権があるとされ、世界各国は相応の防衛力を持っています。日本政府も・・・防衛態勢の整備や強化など、現実的な対応をしてきました。自衛隊は日本の防衛には不可欠であり、・・・国民から大きく期待されています。」注釈で「集団的自衛権を『行使することができる』と解釈を変えるべきだという主張もあります。」

【憲法改正見開き2ページ(1時間扱い)は異例。「憲法は前文と第9条で、戦争の放棄を定めており、現在でも政府は集団的自衛権の行使はできないと解釈しています。そのため、・・・他国軍が攻撃された場合でも、日本の自衛隊は相手に反撃することができないとの指摘があります。憲法改正の手続きは、このように憲法を現実に対応したものにしたり、条文の表現を改めたりするために定められています。」

2014年12月18日木曜日

江戸の正月
「家内安全」「大願成就」「開運招福」等の願いを込めて「歳神様」新年を迎える
           美濃山忠敬
  中央区日本橋小学校非常勤講師
 江戸の人々は、「家内安全」「大願成就」「開運招福」等の願いを込めて「歳神様」新年を迎えます。
江戸時代半ばから「稲葉風」「谷風」「お染風」など約十年のサイクルで感冒が大流行しました。「四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北の歌舞伎「お染久松」が流行した時の感冒は、「お染風」。風邪をひかないため「久松るす」の張り紙を戸口に。「あなたの好きな久松さんは留守をしていますので、お染さん(風邪)は来ないで」という洒落。
また、江戸時代に13回も大流行した麻疹、その他にも瘧 (マラリア)」、疱瘡、幕末にはコレラ。江戸の人々にとって病気に罹らずに生き抜いて歳神様を迎えることは、大変なことでした。
                                                                             
新年を迎えるには、年末の大掃除。江戸城では、旧暦の1213日、年男の老中の将軍座所の箒がけ、殿中の塵を払う「煤払」から始まり、江戸の町中一斉に煤払。終わると、煤餅を搗いてお祝いし、商家では、主人の胴上げをしました。この日で主に蕎麦を送るお歳暮も終り。
年越し蕎麦は、江戸中期頃から商家で月の末日に蕎麦を食べる「三十日蕎麦」が転じて年越しそばに。幕末には、江戸の食べ物屋が六千軒余のなか、蕎麦屋は三千七百軒余。江戸の人々の廉価な16文の蕎麦好きは想像以上です。
蕎麦は、細長いことから「長寿延命」「家族の縁が続く」、切れやすいことから「蕎麦で1年間の厄を切る」・・と江戸っ子の「健康観」と縁起担ぎが。そして、立春(正月)の前日の節分で、鰯の頭、柊の枝を戸口に差し、自分の年齢のより一つ多く豆を食べ、年越しをしました。

正月は、新年を迎える儀式がたくさんありました。
正月三が日、江戸城堀端だけは、大名などの登城でごったがえします。「初登城」の時間は、午前七時頃まで。殿様の下城を待っているお供の者目当てに、棒手振りや見物人もたくさん来ます。
登城した大名や高位の役人は、「兎羹の儀」。徳川家の始祖が兎汁を相伴され武運が開けた事から伝統的に続く儀式。武士の元旦は、「御喰摘み」。熨斗、鮑、勝栗、昆布、出陣の際の縁起のいい食べ物。汁は勿論「兎汁」。
元旦に江戸の町民は、若水と若水で点てた大福茶や屠蘇を飲みました。三が日は雑煮。雑煮は切り餅、具は小松菜。鰹節の出汁を使った醤油味だけの簡素なもの。武家の雑煮は、餅、里芋、青菜、花鰹と具たくさんでした。七日は七草粥、十一日は鏡開き、十五日は小正月と続きます。

元旦を迎えた江戸の町には、朝早くから宝船売りの掛け声。皆縁起の良い初夢を見ようと枕の下には七福神の宝船の絵。宝船には、「長き夜の遠眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」の回文。
年始は、本屋の集中した日本橋通油町が繁盛しました。宝船の他に挿絵の入った草紙や歌舞伎の錦絵がお正月の贈答品や江戸土産として重宝されたからです。

元旦から門付け芸の獅子舞、素襖に烏帽子の正装で色鮮やか三河万歳、猿回し,太神楽、鳥追いが街々を歩きます。裏店を含め皆で新年を祝います。
二日から武士は裃姿で、商人は麻裃に脇差姿で年始の挨拶回り。挨拶は、「おめでとう」ではなく、「御慶 (ぎょけい)」と言っていました。
大名や武家の門松は、巨大なもので競い合いました。門松は、歳神様が宿る依代。凧揚げは、大人もよくしました。奴凧は、身分の低い町人たちが、空高くから武家屋敷を見下ろすという事で、気分すっきり。
1516日は、江戸と江戸周辺からの奉公人が、盆とお正月に親元に帰る「藪入り」。帰ってきた子どもたちで江戸の町中凧が一番多く揚がりました。

こうしたお正月を過ごした江戸の人々は、生活を日常に戻し、梅、桜が咲き誇る春を待ちます。