2017年7月29日土曜日

すみだ北斎美術館探訪記
工藤 義弘(東京革新懇代表世話人、前都教組委員長)
 
昨年1122日、墨田区亀沢二丁目の緑町公園内に「すみだ北斎美術館」がオープン。江戸時代には、本所の割下水と呼ばれ、日本を代表する浮世絵師の葛飾北斎(1760年~1849年)や俳諧の小林一茶、歌舞伎作者の河竹黙阿弥などが住んでいた場所です。公園の前は「北斎通り」(以前は「南割下水通り」と呼ばれていた)と名付られ、通り沿いに「葛飾北斎生誕の地」と記された記念碑があり、通りの向こうは東京スカイツリーがそびえ立っています。
「すみだ北斎美術館」の外観は、江戸時代のイメージとはかけ離れ、近未来的な感じがします。「街に開き、地域住民の方々に親しまれる美術館」が、設計のコンセプトだということです。江戸時代では考えられない建物ですが、北斎ならこの建物を題材に、独創的な絵を描くに違いありません。
1989年から墨田区は、葛飾北斎をテーマとした文化施設を作ろうと構想し、「北斎館」(仮称)という名称で計画を推進。その間、墨田区役所1階ロビーに、北斎コーナーというものがありましたが、北斎を語るにはあまりにもさびしいものでした。約1800点もの多数の北斎作品などを収集し、約27年かけて「すみだ北斎美術館」は開館にこぎ着けたということです。
館内は、常設展示室と企画展示室に分かれています。
常設展示室は、7つのエリアで構成されており、北斎と「すみだ」とのかかわりから始まり、主な画号で6つのエリアに分けられた各期の代表作品(実物大高精密レプリカ)によって北斎の生涯を辿ることができます。ちなみに、北斎は生涯に30回も画号を変えています。
最初に目を引いたのは、肉筆画の「潮干狩図」でした。江戸時代には、旧暦3月3日の大潮の日が潮干狩に最も適した日とされていましたが、この潮干狩の様子を北斎は生き生きと描いています。
 「錦絵の時代」には、富嶽三十六景の中の代表作7点が展示されています。「凱風快晴」(赤富士)、「神奈川沖浪裏」「東海道保土ヶ谷」「山下白雨」など、だれもが一度は目にしたことのある作品ばかりです。大きさはB4ほどで、大判と呼ばれる浮世絵では最も一般的なサイズです。それぞれの作品については、タッチパネル式情報端末で解説がされており、より理解を深めることができます。
北斎は、75歳の時に、有名な絵本『富嶽百景』を描きましたが、この時に「画狂老人卍筆」と画号を変え、90歳で亡くなるまでこの号を使いました。その最晩年の傑作「富士越龍」が展示の最後にあります。「天我をして五年後の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」というのが、北斎最期の言葉です。あと5年生かしてくれれば、画工として本質をきわめることができるというのは、真の芸術家でなければ言えない言葉です。「富士越龍」は、富士山から黒雲に乗り、龍が天に昇る姿を描いた作品です。北斎の言葉からも、画業を成し遂げ、今まさに北斎が天に昇って行くかのような感動を覚えます。
 また、常設展示室には、『北斎漫画』などの絵手本をタッチパネルモニターで紹介する「北斎絵手本大図鑑」などもありますが、とりわけ興味を引くのは、門人の露木為一が残した絵を元に再現された北斎のアトリエです。北斎が炬燵に半分入りながら絵を描き、一緒に暮らす娘の阿栄(「美人画ならかなわない」と北斎に言わしめた浮世絵師の葛飾応為)が傍らで見守っている姿が再現されています。
 企画展示室では、6月27日~8月20日の期間、開館記念展「北斎×富士 冨嶽三十六景 富嶽百景 揃いぶみ」と題し、「富嶽三十六景」「富嶽百景」の全図を3期に分けた企画展が行われています。北斎の絵は、これまでの日本画にあまり見られなかった「遠近法」を用いているのが特徴ですが、その技法が詰め込まれた個性的な富士を飽きることなく堪能できました。
 北斎は、浮世絵だけでなく漫画や挿絵画家など、大衆的な文化でも革新的な作品を多数数残しています。また、当時の文化だけでなく、その後の芸術作品や、現代アートにも内外で大きな影響を与えています。

「すみだ北斎美術館」で、そんな北斎に出会うことができるはずです。

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