2022年12月13日火曜日

 火事は江戸の花?!

 東京革新懇代表世話人-元都教組委員長 工藤芳弘


江戸は火災都市

「火事と喧嘩は江戸の花」

といわれるように江戸は火事が多く、「火災都市」とも称されています。

江戸の火事の中でも、とりわけ「明暦の大火(振袖火事)」(1657年)、「明和の大火」(1772年)「文化の大火」(1806年)は、総称して江戸三大大火などと呼ばれています。その中でも特に被害が大きかったのが「明暦の大火」です。この大火事は江戸最大といわれ、諸説ありますが10万人以上が亡くなったとも記録されています。また「天和の火事」(1863年)は、「八百屋お七の火事」とも呼ばれ、歌舞伎の題材になったことで有名です。

 木と紙で建てられてい日本家屋の特徴からも、火事の原因は、煮炊きや照明に火を使用したことによるものが多いと想像できますが、放火(火付け)によるものが多く記録されています。放火の理由は、火事騒ぎに紛れて盗みを働く火事場泥棒でした。生活に苦しかった江戸庶民の姿が浮かび上がります。

その当時、世界第一の人口密集都市であった江戸は、建物が密集しており、一度火事になれば延焼を防ぐことは困難でした。そのようなことから、消火作業は放水ではなく、まだ燃えていない周囲の建物を壊して防火帯を作る「破壊消火」と呼ばれるものでした。江戸の火消しの仕事は建物の破壊だったのです。何か戦時中の「建物疎開」に通じるものを感じます。

江戸の大工は花形職


江戸では焼け跡復旧のための建築工事が日常茶飯でした。そのため腕のいい大工は仕事にあぶれることがなかったといいます。大工という職業は、江戸では花形であり、その数も多かったようです。

一人前の大工になるためには、今でいう中学生頃に親方に弟子入りします。しかし、すぐに仕事はさせてもらえません。修業時代としてさまざまな雑用をこなし、やがて簡単な仕事を手伝わされ、一人前になるには10年ぐらいかかったようです。いわゆる徒弟制度です。

江戸時代の大工は今とは違い、設計から材料の手配や現場監督もこなしていました。ただ建材を組み立てるだけではなかったのです。すべてをこなす大工は、ひとたび火事が起これば、手間賃が倍近くにまでなることもあったといいます。また、大工には飯代や残業代もきっちり出ていました。当時としてはかなり恵まれた労働環境だったといえます。そのために幕府はたびたび大工の手間賃を決めるおふれを出しました。賃金抑制のためでしたが、あまり守られなかったようです。

家を建てるためには、大工だけではなく、屋根や壁の専門職人たちもいました。屋根職人や左官職人です。また、指物職人など家具をつくる職人もいました。

「囲山」という江戸の植林

 火事の多い江戸ですが、長屋など、庶民の家屋が焼けた場合、ほとんどは古材で立て直されました。

しかし、大きな商家などの場合は、火事になって焼けた時のために、自分の家一軒分の材木を深川木場に蓄えていました。

非常用の植林は、「囲山」といわれました。武家屋敷などが焼けた時、その植林を伐採して木材を調達するのです。非常時以外伐採しないというのが「囲山」の決まりでした。

江戸に一番近かった木材の生産地は、今の杉並区でした。青梅街道沿いに杉並木があり、「四谷丸田杉」という銘柄の木材を生産していました。

切り出した木材は、荷駄につけたり、石神井川から神田川に流して運びました。材木で筏を組み、河川で運んだのが筏師です。無形民俗文化財になっている「木場の角乗」は、江戸時代に木場の筏師(川並)が水辺に浮かべた材木を鳶口ひとつで乗りこなし、筏に組む仕事の余技から生まれたものです。

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